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【怪談】稲川淳二の若い頃はリアクション芸人で俳優も。いつから怪談を?

【怪談】稲川淳二の若い頃はリアクション芸人で俳優も。いつから怪談を?

「やだなー。なんか怖いなー」今や夏の風物詩、稲川淳二の季節がやってきました。

ところで、稲川淳二さんはいつの間にか怪談師と言うジャンルを確立させ、世に知らしめましたが、

若い頃は破天荒でキャラが独特なお笑い芸人だったんです。

稲川淳二さんの若い頃の芸人としての活躍と、多才ぶり。

いつから怪談師になったのかをみていきたいと思います。

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目次

稲川淳二はリアクション芸人

稲川淳二の若い頃

本名・稲川良彦(いながわ よしひこ)
1947年8月21日生まれ
東京都渋谷区出身 AB型

1976年『オールナイトニッポン』のDJとしてデビュー

その後、元祖リアクション芸人として、ダチョウ倶楽部や出川哲朗さんが引き継ぐような芸を生み出します。

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バラエティに引っ張りだこ

お笑いに限らず、映画やドラマなどにも多数出演し、俳優としても活躍しています。

『オレたちひょうきん族』では、『ひょうきんベストテン』のコーナーで、

稲川淳二さんは、ありえない量の紙吹雪を浴びたり、手荒な扱いを受けます。

その度に「悲惨だなー!」などと嘆きのリアクションをします。

そして、決め台詞「いかがですか?喜んでいただけましたか?」と言い放ちます。

テレビがいい意味で、ハチャメチャな時代でした。

稲川淳二さんの芸風はNG無しの体当たりといった場面が多く、大声でのリアクション。

これは稲川淳二さんが、怪談で急に大きな声を出す感じに引き継がれています。

ちなみに『オレたちひょうきん族』では安岡力也さんが『ホタテのロック』を披露していましたが、

稲川淳二さんと安岡力也さんは子供の頃から家が近かったので面識があり、

仲良くなったのは芸能界に入ってからだそうで、安岡力也さんが亡くなる2012年まで交友関係が続いていたそうです。

ほかにも『風雲たけし城』など、何かと、タケシさんの番組で稲川淳二さんは重宝されていました。

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元祖『熱湯風呂』

稲川淳二さんは、『スーパージョッキー』の初期のレギュラーです。

熱湯風呂の先駆けとなった『スーパーJOCKEY』のガンバルマンのコーナーです。

稲川淳二さんは6分18秒あたりから。

のちにコーナー名が『熱湯コマーシャル』となり、熱湯に浸かった時間分、ゲストが告知できる内容に。

そして、ダチョウ倶楽部の「押すなよ!絶対押すなよ!」が生まれました。

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稲川淳二は工業デザイナー

稲川淳二さんは工業デザイナーとしても有名です。

1970年に、桑沢デザイン研究所研究科を卒業後、株式会社共立デザインにデザイナーとして就職しています。

稲川淳二さんは芸歴より、デザイナーとしての歴のほうが長いんです。

1987年には、焼肉『韓々』の外観・店内・ロゴマークをデザインされたそうです。

稲川淳二さんがデザインした焼肉韓々の外観
『韓々』ホームページより

1996年には、『車どめ』で、通商産業省のグッドデザイン賞も受賞しています。

自然石を使用した車止めらしく、興味のある方は、こちらからご覧いただくことができます。

ほかにも、稲川淳二さんはデザイナーとして、スズキのレーシングカーのボディカウルや、

ヤマハのテストボディなど、車に関するデザインも手がけたことがあります。

驚くことに工業デザイナーとしては、完全に大学教授でもおかしくないレベルで、

新幹線車内の『検札機』や、初期のバーコードリーダーもデザインしています。


ここまでの知識と技術を持ちながら、何故リアクション芸で世間に認知されてたんでしょうね。

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稲川淳二と家族

稲川淳二さんは、1977年にご結婚された奥様とは、現在は別居されていますが、

結婚当初は、夫婦揃ってCM出演もしたことがあります。

奥様は稲川淳二さんの事務所の社長をしていますが、ほとんど会うことはないそうです。

現在の夫婦の関係について、2016年に稲川淳二さんはこう語っています。

 稲川は約1年前のイベントで妻と別居して「25年」であることと、「妻の住所はわからない」と告白していた。報道陣から改めて「離婚はしないのか?」と聞かれると、「することはない。離婚は愛があるからすること。愛があるから裏切られた時腹が立つでしょう? 私は愛を置いてきた」と離婚する意思はないことを語った。

ORICONニュース

すでに別居生活から、32年ほど経っている奥様との間には二人の息子さんがいます。

長男の稲川貴洋さんは俳優さんだそうです。

テレビ出演情報などは見当たらないので、主に舞台などで活躍されてる俳優さんだと思われます。

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そして稲川淳二は芸人をやめた

次男の由輝さんは、2013年4月に26歳で逝去されています。

実は次男さんが生まれた時に、稲川淳二さんは芸人をやめました。

クルーゾン症候群(先天的な頭蓋骨や顔面骨の形成異常)を抱えて生まれてきた由輝さん。

由輝さんが白目を剥いたり、様子がおかしいことに奥様が気付きますが、

クレーゾン症候群と診断してくれた病院を探すのは簡単ではなかったようです。


クレーゾン症候群は適切な手術を受ければ、症状が改善されることもあるそうで、

次男の由輝さんは生後4ヶ月でその手術を受けることになります。

この時医師から「手術が手遅れだった場合は手足に麻痺が残る」と説明されたそうです。

それまで障がい者との関わりが一切なかった稲川淳二さんはかなり戸惑ったようで、

手術前の小さな次男がこの世からいなくなればいいと思い、次男の鼻を指でつまんで呼吸を止めようと考えたそうです。

あと数センチで次男の鼻に手が届くところで、奥様が病室に戻り幸いにも未遂に終わりましたが、

手術の間中も、次男と家族の将来を気に病み「次男に死んでほしい」と願い続けてしまったそうです。

術後、小さな体に複数のカテーテルを通された姿を見て、

稲川淳二さんは次男の命を軽視したことをかなり悔やんだそうです。

次男の誕生と病気がきっかけで、身内が大変な時に、笑いを取ってる場合ではないと、

稲川淳二さんはリアクション・お笑い芸人をやめてしまいます。

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稲川淳二は1986年『生き人形』で怪談師に

1986年にラジオ番組『オールナイトフジ』で話した『生き人形』の話が話題になり、

翌年には複数の怪談を収録したカセットテープが発売され、オリコンチャートでも上位に。

ここから、怖い話といえば稲川淳二となっていきます。

1993年からは怪談のライブトーク『稲川淳二の怪談ナイト』として全国ツアーが始まります。

『生き人形』は稲川淳二さんが体験した実話で、

1976年に高速道路で少女の影のようなものを目撃したところから物語は始まります。

その後、人形を使った舞台をすることになった稲川さんは人形を見て、高速道路で見た少女と瓜2つだったことに驚きます。

嫌な予感は的中し、人形の製作者が行方不明になったり、人形使いの方の従兄弟の急死や、

スタッフの怪我など不幸な出来事が続く中、

初まった舞台では舞台上の出演者が1人多いことに気づき・・・

といった内容です。ちょっと文字に起こすだけで怖いので、この辺で勘弁してください(汗)

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稲川淳二の2022年怪談の新作は

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顔には年齢なりの皺が深く刻まれ、下から照らされる顔面により恐怖感が増しますね。

「目が悪くなりましてね。いまはボワーンとしか見えない。耳も遠くなりましたし、指は裂傷で裂けるんですよ。怪談でね、口だけは平気なんですけど、他はボロボロなんです」と、霊に取りつかれていると笑わせながら、元気に怪談の魅力を話していく。

デイリー

稲川淳二さんは現在視力も、聴力も衰えがあり、指は乾燥して裂けてしまうそうです。

稲川淳二さん自身の体調報告もなんだか階段のように聞こえてしまいますね。

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